【書評7】『不合理な地球人』ハワード・S・ダンフォード|合理的に考えているようで実はそうではない人びと
人間は限定的に合理的である。
合理的というと、冷静で冷たい、非感情的など負のイメージが出てくる人もいるかもしれないが、いったんそういった考え方はどこかに追いやってほしい。
合理的であることは、投資や仕事といったことだけに必要とされるものではない。友達との会話や、旅行、買い物、ゲームなどなど日常のありとあらゆる場面で、人々は「選択」を求められる。そういった身近な場面の多くでも、合理的であることは非常に有利である。
では、あなたはいったい本当に合理的に思考、行動できているであろうか?本に出てくる例題を参考に一題作ったので、まずは実際に体験してほしい。
あなた(A)はあるギャングの一味で、ここにもう一人仲の悪い同僚(B)がいる。今回ボスが、以下の条件でボーナスをくれることになった。
ボス「ここに20万がある。ボーナスとしておまえら二人にやろう。ただし条件がある。まずこの20万を先輩格Aに渡す。しかし独り占めはよくない、Bにも分けてやれ。分け前をいくらにするかはAが決めればいい。その分け前にBが合意するならば20万は晴れてお前らのものになる。しかし、Bが拒否した場合、ボーナスはチャラだ。ほら20万だ。A,好きに分けろ。」
さて、あなた(A)は分け前としていくら提示するだろうか?具体的な数字を一度頭に考えてみてほしい。ただ、提示金額は1万円単位で、提示のチャンスは一回きりだ。Bと事前の相談もできない。
どうだろう、五分五分あるいは六分四分くらいの金額を考えたのではなかろうか。ただ、二人が合理的人間であったならば、あなたが提示するべき金額は1万(自分の取り分が19万)にするべきだ。
なぜなら、Bからしたら、拒否権を発動したら手元には何も残らないため、無条件で条件を飲むべきだからである。何も残らないよりは、一万円でも獲得できた方が得に決まっている。
あまりに不公平な額だと、相手が拒否権を発動して何も手元に残らないかもしれない。なので五分五分位を提示する、というのが常識的かつ社会的公平な判断だ。ただ、これは本当には合理的ではない。
人間には合理的思考をさえぎるいくつものシステムがある
では、なぜ上の例のように人間は限定的にしか合理的でいられないのか?投資の価格変動を考えるときのように、ある対象に関するありとあらゆるすべての情報を握ることは難しいから。ということは答えの一つであるかもしれない。
ただそれ以上に、感情、思考のショートカット、偏見(バイアス)などといった様々な要因が関係している。そして、それらを認め、考慮したうえで経済について考えるのが行動経済学なのである。より人間的で、心理学なども含んだ新しい経済学といえる。
古くから存在する、一般的に言われる「経済学」というものは、経済の主体として合理的な人間を前提としている。いろいろなことを意思決定するとき、あらゆる情報を入手して完璧に処理し、自分にとって最も有利な選択をするというものだ。
しかし、こういった人物像を前提とする伝統的経済学では、日常生活における当たり前の現象を説明できない部分がある。そもそも、人間が何かを意思決定しようとする場合、あらゆる選択肢を検証して最適な行動をとることはほぼ不可能である。
そこで、人間が有する限定的合理性を基礎に据えて経済活動をとらえるものこそ行動経済学なのである。(これは、これによってこれまでの経済学を補足、発展させようとしているものであって、否定しているのではない。)
(新しい)行動に出ないという損失
記事をここでやめようと思ったが、もうひとつ面白いことを見つけてしまった。それは、現状維持バイアスというものだ。人は、利益を得るよりも、損失を回避する方に強く傾く傾向がある。よって、やりたいことがあるけどできない、新しい道があるが今の現状から動けない、という人が多くいることもうなずける。
新しいことをした時の損失ばかりを強く考えてしまい、今の状況に満足していなくてもその道に踏みとどまってしまうのだ。しかし、人々は動かなかったことに対する損失があることを知らない。もし新しい行動に出た時に、得ていたはずであろう利益が得られないことだ。
また、一歩違ったことをすることは、結果が駄目であろうと情報を獲得することができる。これらを踏まえて、何か今までとは違うこと、あるいは現状に変化を加えてみることは、十分にやってみる価値がある。
居酒屋を例にしてみよう。今はいくつかの(ある程度満足できる)決まった居酒屋をループしているとする。このままだと、一定の満足感は得続けることはできるが、さらにすばらしい居酒屋に出会うという体験をすることはできない。ほかにももっと良いところは転がっているのに、それをみすみす逃して価値の低い居酒屋を使い続けているというのが損失として発生している。
また、新しくいってみたところがあまり気に入らなかったとしても、「あの店は良くない」「なるほど、ああゆうタイプはこんな感じなのか」と、自分の中の情報量や経験値、選択の際の決め手を一つ増やすことができる。
この本は様々な例から、わたしたちがやりがちな間違った思考と、その原因に気づかせてくれる。また、日常にしばし起こっている現象の不合理さを教えてくれる。わかりやすい実例を挙げながら論を展開してくれていて読みやすい。自分の日常に、今までとは違う思考、選択をもたらせてくれる一冊だ。
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【書評6】『本は10冊同時に読め!』成毛眞|”その他大勢”から抜け出す生き方
「速読」かつ「多読」の読書術
題名となっている、「10冊同時に本を読む」こと自体は簡単だ。成毛さんが言うには、リビングやトイレ、通勤用カバン、ベッドなど、さまざまな場所に本を用意し、その場所によって読む本を変えるというものだ。そんな感じで、一日のうちに何冊もの本に目を通す読書法だ。
また、読む内容も、同じ種類のものではなく、小説やエッセイ、歴史、科学など、一分野に限定してはいけないというものだ。
さまざまな本を並列して読むことにはメリットがある。まず、一冊に費やす時間が短いので、その分集中することができる。ひとつの本を終わるまでずっと読むというのは、ダラダラとなったり、面白くない部分に差し掛かった時に飽きてしまったりという恐れがある。
ほかに、さまざまな種類の本を読むことで、脳の様々な部位が刺激でき、アイデアもいろいろな場面から獲得できるという点がある。ビジネスマンだからといって、ビジネス書やマーケティングの本を読んでいただけでは、思いつくアイデアは見たことあるようなものや、平凡そのものになってしまう。
お酒や歴史、科学の本など、一見関係のないようなものを読んでこそ、新しいアイデアを生み出し、またすばらしい感性が磨けるという。
また成毛さんは、一冊の本を読み通すことはかなり少ない。目次と気になるページを2,3p読むだけだったり、文章がへたくそなものは読むのすらやめてしまう。時間を最大限無駄にせず、うまく読み飛ばすことが重要だという。
読書自体を楽しみたい人はあまり参考にはならないと思うが、時間が限られている人にとっては良い読み方だ。また、本はすべて読む必要はない、罪悪感を感じる必要はない、というのは良い考え方だと思う。
「みんなと同じでいい」という考え方は捨てろ
「庶民から抜けだしたいのであれば本を読め」
「本を読まない人はサルである」
「本を読まない人間と付き合う必要はない」
さまざまな名言が飛び出すが、成毛さん自身、庶民とはかけ離れた考え方ができ、実行し続けている。庶民と同じものを読まず、同じものを食べず、同じようなことを避け続ける。娘には塾に通わせないなど、徹底している。
「ノルウェイの森」の永沢という登場人物も、「おまえ(主人公)以外ここにいるやつみんなまともじゃない。俺にはわかる」というセリフを吐くが、似たような感性だと思う。人と同じことをしていては同じ世界しか見えないし、社会に動かされているままだ。
また、学校に関する考え方も出てくるが、堀江貴文さんの考え方に似ている。
そもそも、学校で教えるのは受験のための知識であり、記憶力を試させるのが目的である。社会に出てから記憶力が役に立つのは、人の顔と名前を覚えるような場面だけ。
学校で覚えた知識はほとんど役に立たないのだから、教科書を読むぐらいなら本を読んでいる方がいい。
というように、学校で教える知識は必要のないものだと言い切っている。
「庶民」から抜け出すにはどうしたらよいか?そのための読書なのである。この本は、自分の中にある読書感、哲学というものを向上、修復してくれる力がある。良く本を読む方は、ぜひ読んでみてほしい。
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【書評5】『星の王子さま』サン・テグジュペリ|いちばんたいせつなことは、目に見えない
外見は大切ではないが利用できる
あるトルコの天文学者が、発見した小惑星について会議で発表した。しかし、彼の発表はそのときの服装のせいで認められることはなかった。数年後、今度は洗練されたスーツで全く同じ発表をしたところ、全員に認められた。という話が出てくる。
内容が考慮されず、見た目だけで判断されてしまったわけであるが、世の中はこういったことにあふれている。ちょっとズレているかもしれないが、裁判で美男美女の方が罪が軽くなりがちというのが一つ挙げられる。罪の内容で裁くべきなのに、本質とは関係のない部分で判定されてしまっているという点において上の件と似ている。
実際私たちは無意識にこういった誤った判断をしたり、偏見を持ちがちだ。子供の言うことを軽視したり、テストの点数で生徒のまじめさを評価したり。
逆に言えば、人間の「信用」や好意というものは、ちょっとしたことで獲得できるということかもしれない。
何かと関係を持つということ
王子様と友達になった主人公。別れ際に、王子さまはプレゼントをくれたという。それは、
「君が星空を見上げると、そのどれか一つに僕が住んでいるから、そのどれか一つで僕は笑っているから、君には星という星が、全部笑ってっるみたいになるっていうこと。君には、笑う星々をあげるんだ!」
ということだった。王子様のことが好きで、その笑い声も大好きな主人公は、悲しい時は窓を開けて空を見上げることで、素晴らしい音がする鈴のようなものに心をいやしてもらうことができるのだ。
また、麦畑やササキは、王子様の金色の髪を思い起こさせる。これも、主人公にとってそれらが、見るたびにやさしい穏やかな気持ちになれるという、王子様からのプレゼンtなのだ。
学校の帰り道というのは、誰から見てもただの一道路にしか見えない。しかし、友達との思い出や、恋人との記憶があると、それはその人にとってただ一つの、何かしらの意味を帯びた場所へと変化する。
見た目(モノ自体)は何も変わっていなくても、誰が見ても同じでも、誰かにとってははっきりとした意味を持った存在になりうるのである。そして、そういったものは目では認識できないものなのだ。
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【書評4】『わけあって絶滅しました。』丸山貴史|99.9%の生き物はすでに滅びている?
生き物が絶滅する要因
1、環境の変化
人間のせいでさまざまな生き物が絶滅しているような印象があるが、大きな目で見ると規模は小さい。地球上に生まれてきた生き物のうち、もうすでに99.9%の種が絶滅しているが、そのほとんどの原因が環境の変化による。
例えば、恐竜が幅を利かせていた中生代後期では、隕石によって地球上の気温が変わり、その時の約70%もの生き物が絶滅している。そこからさらに昔の時代には、マグマの大噴出によって95%もの生き物が絶滅したこともある。
他の種を圧倒し、体が大きくなった生き物がどれだけその時代を有利に過ごそうとも、理不尽な環境の変化、自然の前では関係ないのだ。
2、ほかの生き物によって
より強い、速く動ける、賢いなど、自分の住む環境に適応、侵入してきたライバルの生き物によって、「すみか」や「えもの」を奪われ絶滅する例が数多くある。
また、上にあげてきたことに比べると割合はだいぶ少ないが、人間も多くの動物を滅ぼしてきた。食料として狩りすぎたり、今まで無人だった島にペットを連れ込んでそれがもともといた生き物を滅ぼしたりした。
以上のように、この本には具体的な動物とともに様々な例を見ることができる。文体がユーモアがあって楽しく読み進められる。
絶滅があったからこその私たち
著者がとても素晴らしい表現をしていました。
「わたしたち生き物は、地球全体でイスとりゲームをしているようなもの。」
恐竜が地球のいい席を独占していたせいで、ほかの生き物たちはひっそりと暮らすしかなかった。体も大きくできない。隕石による恐竜の絶滅により、地球に空席ができたわけだ。
その空席に座ったのが哺乳類や鳥類で、絶滅がなかったらそれらの進化はありえなかった。陸海空とそれぞれ進出し、体も大きくすることができた。絶滅と進化は背中合わせの状態なのである。
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【書評3】『すべての教育は「洗脳」である』堀江貴文|常識から解放されよう、やりたいことをやろう
貯金的思考の人びと
学校教育で学ぶ、いや学ばされている内容というのは、「いざという時」のためで、役に立つのか立たないのか分からない。やりたいことがあっても、いざという時に備えて我慢しなさい。という大人たちの理屈で機会をつぶされ、我慢を強いられる。
日本には我慢する人をほめたたえる傾向にある。理不尽でいくら不満を抱えようが、黙って耐え続けることが美徳とされる。また、留学、海外旅行、仕事を辞めたい、と考えても、「今はまだその時ではない」と実行に移せない人が大半である。
こういったマインドコントロールが、この国全体を強く支配している。その元凶の一つがまさに「学校」なのである。やりたいことを我慢し、自分にブレーキをかけ、自分の可能性にふたをすることを推奨する恐ろしい洗脳が白昼堂々となされている。
「常識」への信仰
そもそも、学校で教えることの9割は「知識」ではない。知識とは、普遍的なものである。主観の一切入りこまない事実にもとづく知のことを言う。対して常識とは、その場所、地域、組織、国といった狭い共同体、時代の中でしか通用しない、主観が存分に含まれた決まり事である。
学校の先生が押し付けているのはまさに後者である。みんながこれをやっているのだから、点数を取るのは良いことだから、と「常識」を味方にねじ伏せようとしてくる。自分で勉強したいこと、知りたいことがあるのなら、学校の勉強なんか無視して進めればいい。
また、ほかの人間が違うから、やっていないから、という理由でやりたいことができない状況というものは取り除かれなければならないと思う。
使いやすいように精製されてきたわたしたち
そして、なぜ学校は恣意的な常識を人に押し付けようとしているのか?またその常識によってどんな人間を育てたいのか?それは、従順な家畜である。企業や社会は、従順な働き手を求めている。
企業からすると、高学歴の人間は理不尽な作業、労働への体制が高いという判断になる。それは、受験、卒業、就活といった理不尽な勉強に耐え続け、続けてくることができた人間であるからだ。世間でいう「学力」とはそんなものである。
学校は、とにかく企画通りに仕上げようとする。教師は子供たちに同じテキストを暗記させ、同じ数学の問題を解かせ、同じルールで採点していく。赤点をとったり問題行動を起こした子供は、どうにか「規格内」になるように尻をたたく。そして社会や企業に「納品」されていく。
今世間一般でなされている教育とは、時間厳守、一方的な評価、上への服従など、雇用者や使う側にとって管理が楽で従順な「望ましい労働者」を作るためのものである。正直ここまで読んで、言い過ぎや例外がないとは言えないがその通りだと思ってしまった。
『億男』に出てくる千住という登場人物も、次のように言っていた。
「一生懸命勉強をして、有名大学を卒業して、いい就職をすれば金持ちになれる、、それは本当ですか?」
「答えはNo。そんな時代はとうに終わっている。現代の金持ちは、そんな既定のルールを辿ってはいない。また、そんな内容を学校や親は教えてくれない」
はなから使われる側の人間として勉強させられ、それに気づくことができなかったというのは洗脳されていた証拠である。常識を疑うこと、また常識という世間からの洗脳から解かれる人が多くなることを願う。
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