汲めども尽きぬ知恵の泉

「武器はこの身ひとつ」を目指して

【書評3】『すべての教育は「洗脳」である』堀江貴文|常識から解放されよう、やりたいことをやろう

 

貯金的思考の人びと

学校教育で学ぶ、いや学ばされている内容というのは、「いざという時」のためで、役に立つのか立たないのか分からない。やりたいことがあっても、いざという時に備えて我慢しなさい。という大人たちの理屈で機会をつぶされ、我慢を強いられる。

 

日本には我慢する人をほめたたえる傾向にある。理不尽でいくら不満を抱えようが、黙って耐え続けることが美徳とされる。また、留学、海外旅行、仕事を辞めたい、と考えても、「今はまだその時ではない」と実行に移せない人が大半である。

 

こういったマインドコントロールが、この国全体を強く支配している。その元凶の一つがまさに「学校」なのである。やりたいことを我慢し、自分にブレーキをかけ、自分の可能性にふたをすることを推奨する恐ろしい洗脳が白昼堂々となされている。

 

「常識」への信仰

そもそも、学校で教えることの9割は「知識」ではない。知識とは、普遍的なものである。主観の一切入りこまない事実にもとづく知のことを言う。対して常識とは、その場所、地域、組織、国といった狭い共同体、時代の中でしか通用しない、主観が存分に含まれた決まり事である。

 

学校の先生が押し付けているのはまさに後者である。みんながこれをやっているのだから、点数を取るのは良いことだから、と「常識」を味方にねじ伏せようとしてくる。自分で勉強したいこと、知りたいことがあるのなら、学校の勉強なんか無視して進めればいい。

 

また、ほかの人間が違うから、やっていないから、という理由でやりたいことができない状況というものは取り除かれなければならないと思う。

 

使いやすいように精製されてきたわたしたち

そして、なぜ学校は恣意的な常識を人に押し付けようとしているのか?またその常識によってどんな人間を育てたいのか?それは、従順な家畜である。企業や社会は、従順な働き手を求めている

 

企業からすると、高学歴の人間は理不尽な作業、労働への体制が高いという判断になる。それは、受験、卒業、就活といった理不尽な勉強に耐え続け、続けてくることができた人間であるからだ。世間でいう「学力」とはそんなものである。

 

学校は、とにかく企画通りに仕上げようとする。教師は子供たちに同じテキストを暗記させ、同じ数学の問題を解かせ、同じルールで採点していく。赤点をとったり問題行動を起こした子供は、どうにか「規格内」になるように尻をたたく。そして社会や企業に「納品」されていく。

 

今世間一般でなされている教育とは、時間厳守、一方的な評価、上への服従など、雇用者や使う側にとって管理が楽で従順な「望ましい労働者」を作るためのものである。正直ここまで読んで、言い過ぎや例外がないとは言えないがその通りだと思ってしまった。

 

億男』に出てくる千住という登場人物も、次のように言っていた。

「一生懸命勉強をして、有名大学を卒業して、いい就職をすれば金持ちになれる、、それは本当ですか?」

「答えはNo。そんな時代はとうに終わっている。現代の金持ちは、そんな既定のルールを辿ってはいない。また、そんな内容を学校や親は教えてくれない」

 

 

はなから使われる側の人間として勉強させられ、それに気づくことができなかったというのは洗脳されていた証拠である。常識を疑うこと、また常識という世間からの洗脳から解かれる人が多くなることを願う。