汲めども尽きぬ知恵の泉

「武器はこの身ひとつ」を目指して

【書評15】『ことばと文化』鈴木孝夫|「ことば」が「モノ」よりも先にある?

悩む女の子のイラスト

ことばがモノを在らしめる

前回の書評で、人々は世界を分けて区別、理解しているということを紹介した。それでは、人間は何を使って世界を分けているのか、それは「ことば」である。

 

この世に存在するすべてのモノ、またモノだけでなく動きなど無形のものなど、すべてのことに「名前」がある。それに該当する「ことば」がある。これは、疑うまでもなく当然のことのように思える。

 

しかし、哲学者や言語学者の中には、こういった当然の前提をひっくり返してくれるような考え方を持つ人がいる。どういった考え方なのか?

 

それは、モノという存在がまずあって、それにことばを付けていくのではなく「ことばが、逆にモノを在らしめている」という考え方である。始めにことばありき、というのである。

 

ただ、始めにことばがあるといっても、カオスのような状態から、ことばだけがその辺りをゴロゴロしていたというわけはない。また、鳥が卵を産むようにことばがいろいろなモノを生み出しているといった意味でもない。

 

「ことばがモノを在らしめる」ということは、世界の断片を、わたしたちがモノとか動きとして認識できるのは、ことばがあるからであり、ことばがなければ犬も猫も区別できていない、ということである。

 

世界には、4本の足で歩く動物が存在しているが、それらを別々の存在として区別、認識しているのは、それぞれに該当する別々のことばがあるおかげである。

 

犬、猫という区別がない国があったとする。そこの人々はそのどちらを見ても、漠然と4本の足で歩く何かが動いている、というふうにしか認識しない。つまり、その国の人々の概念には、我々で言う犬や猫といったモノが存在していない。ということだ。

 

前回からの続きにもなるが、「本来ダラダラと連続した区別のない世界」に対して、人間が勝手に「切れ目」をいれて、モノ、コトを認識する。その「切れ目」はもともと世界、モノの側にあるのではなく、人間が勝手に作りあげている

 

〇前回記事『世界は分けてもわからない』

 

 

 秋田犬のイラスト

ことばはモノを変化させる

そこからさらに、言語はモノを変化させもする。例えば虹。Rainbow。虹は、本来7色ではない。光の波長の違いからくる連続的な変化に過ぎず、明確な段階はない。これに対し、日本では勝手に7つの色を設定しているし、アメリカだと6色、中国だと5色だ。

 

つまり、言語、文化が違うだけで、虹は勝手気ままに変化しているのである。

 

ことばがなければモノは認識されない

膨大な種類の植物が生息するジャングルにいるとしよう。生物学者とあなたが見ている世界は果たして同じだろうか?おそらく、生物学者の見る世界にはたくさんのモノが存在しているし、あなたの目にはモノがすくない。

 

名前や特徴を理解していないと、モノ自体をそもそも人が認識しないのだ。

 

四葉のクローバーもそうだ。本来、葉が3つだろうが5つだろうがクローバーに違いはなかった。そこに人間が(幸せの)4つばのクローバー、という名前を付けたことで、四葉のクローバーはこの世界に、あなたの中に、モノとして存在した。

 

このようなことは、哲学の分野では唯名論実念論という対立で昔から議論されてきたようだ。今回紹介したように唯名論は言語の仕組みを良くとらえているとおもう。また、勉強する、知識をつけることで世界が広くなるということも裏付けしてくれている。

 

[商品価格に関しましては、リンクが作成された時点と現時点で情報が変更されている場合がございます。]

ことばと文化 (岩波新書) [ 鈴木孝夫 ]
価格:842円(税込、送料無料) (2019/2/27時点)