汲めども尽きぬ知恵の泉

「武器はこの身ひとつ」を目指して

【書評14】『世界は分けてもわからない』福岡伸一|なぜ勉強するのか?

人々は物事を分けて考えている

歴史でも生物でもそうだが、人々は物事を理解しやすくするために区別し、枠組みを作る。例えば、ここからここら辺までが白亜紀、何年から何年くらいまでがカンブリア紀、といった具合に。

 

また、縄文時代弥生時代といった枠組みも一例だ。これらは小学校の時から当然の事実のようにして教えられるが、はたして「真実」だろうか?当時の人(生き物)たちは、「自分は今、弥生時代にいきている」という自覚はない。

 

あとから生まれてきた人間たちが、歴史というものを理解できるように、わかりやすくするために、勝手に区別をしただけだ。もともとランダムに、境界線もなく進む時間を、意識的に作り上げたのだ。

 

こういった理解の仕方は、ある一定の主観的な物事の枠組みから見た、「妄想」に過ぎない。人間を例に挙げても当てはまる。肌の色、宗教、国籍など、図式化、定義化し、区別して考えることは、自分たちの生存に有利に働く。

 

そういった区別は、団結力を強め、誰が見方で誰が敵であるかをはっきりとさせる。分けることで分かりやすくなるのだ。しかし、それらもある時代、ある地域に生きる人間が、勝手に作り上げた枠組みに過ぎない。もともと人間そのものに境界線はない。

 

「これを境界にしよう」「これを違いとしよう」と作った瞬間に境界が生まれるのだ。国境も、人種も、肌の色も、人間がこれを違いとして定義づけ、区別としたことによってそれらが生まれたに過ぎない。

 

わたしたちは、本当は無関係な事柄に、因果関係を付与しがちなのだ。それは、連続を分節し、ことさら境界を強調し、不足を補ってみることが、生き残るうえで優位に働くと感じられたから。もともとランダムに推移する自然現象を無理にでも関連付けることが安心につながったから。世界を図式化し単純化することが、わかることだと思えたから。

 

 

なぜ勉強をするのか?

わたしたちが身に着けてきたもの、あるいは知識として蓄えてきたものは、世界に対する本当の理解ではなく、ヒトの目が切り取った人工的なものだ。世界は分けないことにはわからないが、分けても本当にわかったとは言えない。しかしだからといって、すべての枠組みを外して世界を理解することは不可能だ。

 

大切なのは、まずは見方(考え方)を知ることだ。見方を知ることで、世界はより濃く映る。例えば、観光だ。その場所の歴史を知り、建物を理解し手から見る人の方が、何も知らないで見る人間よりもより濃厚で意味のある時間を楽しむことができる。

 

そしてさらにもう一歩。その一方で、その見方(考え方)、枠組みが絶対的ではないということも知る必要がある。例えば、「肌の色」のによる差別化が、もとから人間に存在していた差別化ではなく、人間が勝手に作り上げた境界線であることを知り、その枠組みから自由になることで肌の色にとらわれず、その人自身の魅力に気づくこともできる。

 

多くの見方を知り、さらにそれらが一つの見方に過ぎないことを知る。それによって人生は豊かに、自由になっていく。これが、勉強することの意味の一つであると思う。

 

 

[商品価格に関しましては、リンクが作成された時点と現時点で情報が変更されている場合がございます。]

世界は分けてもわからない (講談社現代新書) [ 福岡 伸一 ]
価格:842円(税込、送料無料) (2019/2/24時点)