生と死について、ひさびさに考えた
生と、死。
大多数のひとはこの二つの状態を、対極に置くと思います。正反対のものだと。
自分も当たり前のようにそう思っていたし、疑う余地もないように考えていたが、実はそうではないらしいと、自分の中で変化してきた。
私の中で生と死は、対義語ではなく「類語」である、とも言ってしまいましょう。
それを本の中の言葉を借りて説明したい。
◯
「死は生の対極としてでなく、その一部として存在している。」
主人公は、親友を亡くした時考えました。
死は、だれか(私やあなた)の中に本来的に含まれているもので、日常的にはびこっている。そこら中に存在している。
村上春樹の例えが面白いので、理解の手助けに引用します。
「文鎮の中にも、ビリヤード台の上に並んだ赤と白の横のボールの中にも死は存在していた。
そして我々はそれをまるで細かいチリみたいに肺の中に吸い込みながら生きているのだ。」
死とは「あちら側」、生とは「こちら側」というようなものではなくて、死もこちら側の一部として常にまとわりついているという感じでしょうか。
◯
「(私はもうすぐ死ぬでしょう、的なセリフの後)でもこれは何も恐ろしいことではない。無に帰るだけだから。
私たちは本来無であり、つかの間のこの人生を楽しんだ後は、謙虚に無に帰るだけです。」
「(死んでから、火葬場で焼かれようが)原子そのものが壊れることはありません。もちろん消滅もしない。
我々の身体をつくっていた原子は煙の中で空中に拡散していきます。つまり、この地球上に存在し続けるのです。
そしてその原子達は、再び誰かの身体の構成物に成り得る。」
教団X(中村文則)
これは、作中のある宗教団体?のトップ的な人物が発した言葉です。
こちらの考え方では、私たちはそもそも死=無の状態がデフォルメで、生=有は一時的に与えられたものだ、というものです。
宇宙が誕生してから、長い長い歴史とともに、さまざまな生物が生まれては死んでいきます。
そのように無限のサイクルの中にたまたま私という存在が生まれただけに過ぎず、本来的には私が無である時間の方がこの世界から見た時に圧倒的に長い。
宗教的な考え方と、自然科学的な考え方からの生死観でしょうか。私的に納得がいく感じがします。
以上2つは、非常に面白いことに考え方が反対です。
村上春樹式で考えると、生に死が含まれている。
中村文則式でいくと、死の中に生がある。
人間、あるいは存在している生物本位で考えると、世界は今あるこの私を中心に存在する。
世界(宇宙や地球)本位で考えると、人間も生き物もたまたま生まれてくるもので、一つの流れにすぎない。
ただ、二つともやはり生と死は相対するものではなく、どちらも同じ側にいるという点で共通しています。
◯応用編
東京喰種:reより
「この世界はまるでおもちゃ箱だ」
「結局は全て無になる」
たしか最終巻あたりにこんなニュアンスのセリフがあったと思います。
生とはこの世界に一時的に与えられたもので、悲しみも嬉しさも達成したことも全てはいつかなくなる。
時間が来たらハイさよならと、閉じられてしまう世界。
虚無てきな考え方です。
◯まとめ
死や生について、誰しも考えたことがあるのではないでしょうか。
生と死は対極ではない。
生と死は共に存在しているもの。
生と死は同じ側にあるもの。
この考え方はいかがだったでしょうか。
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